水戸(徳川)光圀公
寛永5年(1628年)〜元禄13年(1700年)

□■那須国造碑の発見と侍塚■□
延宝4年(1674年)水戸藩領武茂郷の庄屋大金重貞は、当時湯津上村の 草むらに横たわっていた石碑の話を旅の僧から聞き、これを丹念に調べ、那須国造碑(7世紀末に活躍した 那須直韋提の業績を讃えて建立された石碑)であることをつきとめ、自著「那須記」にまとめました。 これが光圀公の注目するところとなり、鞘堂を建てて石碑を保護し、さらに碑文の内容を墓誌と考え、 その解明の為に侍塚(当時「車塚」と呼ばれていました)の発掘調査を行ないました。
  ■□侍塚の発掘調査□■
元禄5年(1692年)に上・下侍塚古墳の発掘調査が行なわれました。 個人の趣味として考古資料が扱われていた江戸時代において、日本初の学術目的の発掘調査でした。 さらに発掘後、出土遺物を絵図に記録してから墳丘に戻し、松の木を植えて古墳の整備をするなど、 文化財保護にも積極的に取り組んでいた様子が窺えます。
この一連の事業は、日本考古学の歴史上特筆される業績とされ、光圀公や佐々介三郎宗淳とともに、 大金重貞を中心とする地元の人々の努力によって成し遂げられたものです。